オニオングラタンジュース

感想文はネタバレを含むってお母さん何度も言ったよね

ヤブノナカを聞き終えた

ヤブノナカ、Audibleで聞き終えた。なかなかにイライラさせられる場面も多くて、それはよく解釈すれば心を揺さぶられたというやつで、面白かったと言ってもいいんだと思う。

そのタイトルから芥川を想定しての物語展開を期待させられて、前回書いたのもその想定の上でのものだったんだけど、その予想は外れた。話者によって異なる事実が描かれているわけではなかった。事実に対して、話者ごとに異なる受け止めがあるだけであり、事実が矛盾することはなかった。たぶんなかったと思う。

たしかに異なった解釈をすることを我々は「藪の中」と呼ぶことも無いわけではないが、作品名にそれをつけるのはさすがに大仰に過ぎるのではないかしら。いくらか拍子抜け感がないわけでもない。

 

結局は、木戸と長岡の対比の物語だった。木戸は出版社に勤める文学インポで、若干古い価値観を引きずっていると言えなくもない程度の割と誠実なビジネスマンで、2回の離婚を経て、かつて交際していた作家志望の女性からは10年後に性被害の告発文を発表される。長岡は女流作家でフェミニスト、という言葉は作中に出なかったと思うが正義の人で、性加害を与えてきた夫とは離婚させてもらえないまま別居して、一回り以上年下の男と同棲している。五十歩百歩の厄介者であるが、木戸は性犯罪者かのような扱いを受ける一方で、長岡は聖人君子のように崇められるようになる。その時代性、あるいは運命による評価の違い、定まった評価がどうであれ、その人物の本当のところはわかりえないのだというあたりが主題に描かれる。

長岡が、直接的な表現は使われないがなかなかに嫌な奴として描かれていて、それは作者の革新強硬派への嫌悪感情が漏れているんじゃないかと思っていたけど、いずれ聖人化される人物であることがわかっていたから敢えてそんな聖人ではないことを強調する描写だったんだろうことが後からわかる。そう考えると、表現が上手いんだな。

 

他の多すぎる登場人物は二人の職場と私生活からそれぞれ描くために配置されたものに過ぎなかったように思える。だとしても五松とそのセフレのキャラクターは強烈すぎて、本当に必要だったのか、必要だとしてもうちょっと上手く描けなかったものかと考えざるを得ない。

文芸内のエロ表現というものは、ただ読者を喜ばせるために加えられただけなんだというようなことを、たしかtumblrか何かで見たが、まさにエロのためだけに描かれたような意味のないエロだった。そこからの過剰すぎる復讐は、いったいどんな人間性を想定すれば描けるのか私には理解できない。

文句を言い出せばきりがない。逆に言えば、こんなに文句を言いたくなるほどには心を動かされたんだろう。そうでなかったら途中で打ち切ってしまっているはず。それでもやっぱりタイトル詐欺だとは思うんだよな、ぜったい。

ヤブノナカ聞いてる

金原ひとみのヤブノナカをAudibleで聞いている。半分過ぎたくらいまで聞いたが、早めに感想を書きたくなった。たぶん最後まで読んだところで変わらないんじゃないかと思っている。

特別に難しい話ではないけど、音声で聞くと、登場人物が多くて混乱する。人名とか覚えられなくない? それと、会話文を会話としてはあり得ないゆっくりとした朗読をされてムズムズする。ただただ淡々と読むならまだしも、情感は込められながら、しかしあり得ない発話をされて、この音声をどう処理すればいいのかわからなくなる。朗読ってそういうものだろと言われてしまうと、それはそうなのかも。

 

決して難しい文章ではなく、たぶん内容もそう難しくはなさそう。しかし物語はおおよそ半分を過ぎ、本当にもう半分も内容があるんだろうかと不安になる。この構造が主題であり、起承転結を伴うような物語展開が今後本当に描かれるんだろうか。

構造、と呼ぶほどユニークなものではなく、様々な登場人物の視点から物語が語られ、それが次々に移り変わっていく。藪の中をタイトルにしているからには、語り手によって異なる真実が描かれるだろうことは想像に容易く、でも今のところはそう大きな隔たりはない。

 

本屋大賞的な作品との違いとして感じられるのは、不快さだ。

まずひとつには、登場人物がクズばかりであるということ。一人称で語るキャラクターはだいたいみんなクズで、自分にもこういう面はあるけれどもみたいな譲歩を置きつつ正当性を主張し、しかしどこか違和感を抱かせたまま物語は進む。そして次の章ではきちんと別の人物からの批判に遭うのだ。正当性を語る部分でも読み手に違和感を抱かせるのは、きっと作者の描写が上手いからなんだろう。

もうひとつには、そもそも主題が重い。様々な人物間で一貫して性加害をテーマに描かれている。でもそれは立場が違えば見え方も違うし、あるいは現在の視点から過去の行為を裁く場面もあり、何が悪で、どこまでは許容されると一概に言えるものでもない。一概ではないよねという言説は物語内でもすでに語られていて、だからもしこの先にもっと決定的なすれ違いが描かれたとして、それが物語のクライマックスになり得るのかどうかは大いに疑問。というのはともかくとして、古い価値観を正当化するのも、それを糾弾するのも、どちらの視点もげんなりさせられる。まあこうした種類の小説においては、ただ面白い作品よりも、読み手を不快にさせるくらいのほうが文学性が云々なんだろう。

最近見た良かったアニメ2026春

ここ最近は、1クールごとにこのタイトルで書いているから、まあまた書き始めてはみたけど、ううむ。

 

日本三国、面白かった。文明の衰退した日本が三国に分裂して国盗り合戦する話。基本的に戦略ゲーで、裏の裏を掻くからもはや理屈なんてあって無きが如き。そうと気づかせない理屈っぽさと、テンポの良さ、癖の強いボケが心地よい作品だった。

 

他に1クール見切ったのはマリッジトキシンと、メイドさんは食べるだけと、転生したらスライムだった件なんだけど、「良かった」と言えるほどかというと、ううむ。そんな期もあるか。

そも何がやっているか、何が面白いのかの情報も集められてはいない。楽しめていたはずの作品を見逃している可能性も十分にある。夏期には無職転生や攻殻機動隊があることは知っているので、期待していいだろうとは思うのだけども、既知の作品ばかりに目がいってしまうのもどうなんだろうと思わなくもない。

イン・ザ・メガチャーチ聞いた

Audibleでインザメガチャーチを聞いた。読んでない。

最初はハラリのネクサスを聞いていたんだけど、これは無理だった。音声では脳がついていけない。もっと集中して聞ければまた違うのかもしれないけど、上巻だけで11時間あるものを集中して聞き続けるの、それこそ無理なのでは。それでもっとライトなものを聞こうとなって、朝井リョウを聞くことにした。

 

期待通りにライト。ぜんぜん聞ける。難しいことがひとつもない。宗教思想も、ビジネスモデルも、私の得意分野であることもあるかもしれない。いや、宗教思想なんてぜんぜん出てこなかったが。オタクビジネスがメガチャーチと構造的に同じだよねという話。米南部の福音派のでかい教会、昔はなんか別の名前で呼んでいたような気がするんだけど思い出せない。そうしたものについて詳しくない人というのも当然たくさんいて、そんな読者にも理解できるようにきちんと丁寧に説明してくれるんだけど、それがどうにもくどい。そこまで言わなくてもわかるでしょ、って思ってしまう。もしかすると文字を読めばそこまで気にならないものが、読み上げだと余計に気になってしまうのかもしれない。それはわからない。

それだけ丁寧にわかりやすく描写した物語で、だけども物語展開はライトでないのは意外だった。3人の主人公がそれぞれみんな破滅に向かっていって、誰も救われないとは思わなかった。3人の物語がもっと絡み合うものかと思ったけども、接しはしても絡まないのも意外だった。じゃあ何のために。この演出は本当に必要だったのか。結局何を描きたかったんだろう。読みやすくて、面白いんだけど、それ以上の何かではない。いかにも本屋大賞らしくて良かった。

お姉さまと巨人9巻読んだ

王国滅ぼして以降、無駄に広げ続けてた風呂敷を、9巻で一気に畳み始めた印象。ジュンコとオウメガらが組んでるだけで面倒くさそうなのが、カルラの妹まで合流したら、さすがにこれもう最後じゃん。てかヒナコ・ウェンディ組がどう考えても戦力不足じゃね? むこうはベヒモスもいたぞ。

そうした物語の進展もありながら、今巻のハイライトは「不敬である」だろう。誰もお前の手下じゃないのに、出てきた言葉が「不敬である」。圧倒的な動揺。大振りな筆致。対して凛としたエイリス。あのコミカルな可愛らしさはエイリスの持ち味だったはずが、その役割をカルラに譲って、まさにお姉さまの佇まい。私はこういうのが、あるいは幕間の雰囲気だけでも十分だったんだよなあ。

平和と愚かさが二章まで

二章を読み終えた。と思って目次を見返すと「二章」という括りはもしかすると適切ではないのかもしれない。第一部がユーゴスラビアについてで、第二部ではウクライナについて書かれる、その断片を読んだに過ぎないぽい。ではあるが目次にも「2 悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」と項目立てられているのだから間違いではないのだ。

前章ではユーゴスラビアを中心に語られたものが、今章の舞台は満州に移る。例に挙げられるのは七三一部隊。数々の残酷な人体実験が行われた。現地の博物館ではその惨状が語られる。日本軍は実に残虐だった。博物館はその被害者の無残な死に意味を与えようとする。

他方で日本では七三一部隊について積極的には語られない。正式な部隊ではなく、政府からの指示もなかっただろうとされる。実際にその研究が活かされた記録もない。ただ無駄な、愚かなだけの実験であり、犠牲だった。なぜそんな愚かな実験ができたのか。犠牲者を丸太と呼んでいたことが象徴される。ひとりひとりの人間として扱われていなかったのだ。博物館は、死に意味を与えることで、その人間性の回復を試みる。他方で加害者側である我々は何をすべきか。

その試みのひとつが村上春樹のねじまき鳥クロニクルだという。井戸にもぐり瞑想すること、過去に触れること、しかしそれは複雑に入り組んでいて何かすることで簡単に回復できるようなものではないということ、その複雑性に思いを馳せること。わかったようなわからないような。

そも村上春樹作、ぜんぜん覚えてないんだよな。ペーパードライブでは海辺のカフカを扱ってて、これまたまるで覚えてなくて笑える。カフカまでの中長編は全部読んでるはずなのに。三部作とノルウェイまででは名前がなく、数字が多いというところまではわかるんだけど、冷笑的な傍観者だった主人公が少しずつ主体性を持った物語になってきたのはわかるんだけど、どんなキャラクターが出てきてどう物語が紡がれたか、具体的な話がぜんぜん思い出せない。理路整然とした物語ではないから余計に記憶に残らないというのはありそう。理路整然としてなくても、それでも物語は繋がっていて、そうした繋がっているようないないような複雑な物語こそが大事で、我々はその記憶を残していかなくてはならない、という話なんだと思う、たぶん。無理じゃね? 愚かさを許容してくれるはずだったのでは。

平和と愚かさを読んでいる

平和と愚かさの第一部を読み終えた。第一部は主にユーゴスラビアの旅行記。博物館などを巡りながら平和とは何かを考える。

読むために知識はあまり必要としない。歴史・地理的な知識が必要となる場面ではだいたい説明が付されている。文体も決して難しいものではない。だから誰でもスラスラと簡単に読める、とも言いにくい。いくら説明がなされたところで聞き慣れない単語が多い。ほとんどの人名は聞き覚えがないし、地名も聞いたことのあるもののほうが少ない。それがどっち陣営の名前であるか、たった一度の説明で覚えられるわけがない。さほどに残虐な表現があるわけでもないが、それでも戦争を語る文章をそんなにサクサクと読み進めることができるものでもなく、噛みしめている間に固有名詞は抜けていく。

それでも、決して難しい文章ではないのだ。固有名詞を記憶できなくても、戦争やそれを語った人物の詳細を覚えていられなくても、大まかな文意を理解することはできる。つまり、平和とは考えないことなのだ、と。

戦争について、平和について為政者は考える必要があるが、一般市民が常に考え続ける必要はない。考えなくても許されることこそが平和なのである。異なる民族、宗教、属性の人柄ともに暮らせば何かしら対立は起こりがちだ。かつてのユーゴスラビアではそんな中でも平和が保たれていたが、やがて内戦が起こり、今は隔離することで平和が築かれてはいる。同じ平和であっても、かつての平和とは異なる平和である。あるいはかつての平和も、抑圧によって築かれた平和だったのかもしれない。平和なんかではなかったと被抑圧者が声を上げれば、歴史は書き換えられる。

難しい文章ではない。言葉を書かれたとおりに受け止めることはそう難しいことではない。でも、つまりそれがどういうことであるか、本当に理解しようとすると途端に難しくなる。